RED的!!映画解説「グリーンマイル」
たまには映画の話でも書きましょうか!!
基本かなりの映画マニアです。
食と映画は毎日同じものでも堪能できるタイプです。
普段の生活から隔離した映画の世界と映像美それと意味をこめた映画が特に好きです。
個人的に日本の法律に二十歳までにゴッドファザー2を見る法案を通したいほどです。
ゴッドファザー三部作はどれも素晴らしい出来ですが、一押しは2!!
断然2です。
社会に出た際の男ならではの悩みを過去と現在を交えながら描いていくストーリーは素晴らしいです。
さて、今回はREDなりの介錯を交えた映画解説をしていきたいと思います。
「グリーンマイル」
1999年のスティーヴン・キング原作の作品で主演はトム・ハンクス
基本的なあらすじは奇跡の力を持つ黒人死刑囚と彼を見守る看守たちの姿を描いたヒューマン・ドラマ
1995年。老人ホームの娯楽室で名作「トップ・ハット」を見たポール・エッジコムの脳裏に60年前の記憶が甦る……。大恐慌下の1935年。ジョージア州コールド・マウンテン刑務所の看守主任ポール(トム・ハンクス)は、死刑囚舎房Eブロックの担当者だった。死刑囚が電気椅子まで最後に歩む緑のリノリウムの廊下はグリーンマイルと呼ばれていた。部下は副主任のブルータル(デイヴィッド・モース)はじめ頼れる連中ぞろいだが、州知事の甥である新人パーシー(ダグ・ハッチソン)だけは傍若無人に振る舞う。そんなある日、ジョン・コーフィ(マイケル・クラーク・ダンカン)なる大男の黒人がやってきた。幼女姉妹を虐殺した罪で死刑を宣告された彼は、実は手を触れただけで相手を癒すという奇跡の力を持っていた。彼はポールの尿道炎を治したのを皮切りに、パーシーに踏み潰された同房のドラクロアが飼っていたネズミのミスター・ジングルズの命を救った。ドラクロアはその翌日処刑されたが、パーシーは残酷にも細工をして彼を電気椅子で焼き殺した。コーフィの奇跡を目の当たりにしたポールらはパーシーを拘禁室に閉じ込めてコーフィをひそかに外へ連れ出し、刑務所長ムーアズ(ジェームズ・クロムウェル)の妻で脳腫瘍で死の床にあったメリンダ(パトリシア・クラークソン)の命を救わせた。房に帰ったコーフィは、拘禁室から解放されたパーシーをいきなりつかまえるや、メリンダから吸い取った病毒を吹き込んだ。するとパーシーは厄介者の凶悪犯ウォートン(サム・ロックウェル)を射殺し、そのまま廃人になった。ウォートンこそ幼女殺しの真犯人だったのだ。ポールはコーフィに手をつかまれ、彼の手を通じて脳裏に流れ込んで来た映像で真実を知った。ポールは無実のコーフィを処刑から救おうとする。だが、彼は「全てを終わらせたい」と自ら死刑を望み、最後の望みとして映画「トップ・ハット」に見入ってから死に赴いた。それから60年。あのときコーフィが与えた奇跡の力はポールに宿り、彼にいまだグリーンマイルを歩かせしめないのであった。
上記があらすじになりますが、ここで映画を見る上での細かい演出とRED的な雑学を交えて解説します。
この映画の話をすると「感動作品とか悲しい作品」と表現する方が殆どですが、あの作品はRED的介錯で例えるなら「皮肉を交えた永遠の絶望」と「嫌らしいまでの罪と罰」を表した作品だと介錯しています。
作品の巧妙なキャラクター設定が最終最後でこの「皮肉」を如実に表現いたします。
トム・ハンクス演じる主人公はを出てくる登場人物の中で、他の出演者と比較し(真面目・心優しい・正義感)な人としてストーリーは描きます。
しかし、ここで良い人と描写すればするほどに、途中で出てくる死刑囚や嫌な看守仲間が悪人として引き立ちます。
そして大事なのは、コーフィが完全なる無実の犯人であり、善人である事を表現する為の、様々な奇跡もこのラストへの悪魔のような深みを与えるのに必要な要素です。
その為、コーフィが最後に見る映画「トップハット」この映画は「カイロの紫の薔薇」1985年の映画にも登場しますが、これは同映画で悲しいヒロイン ミアが至福の表情を浮かべ映画を見入るラストシーンとコーフィの姿をシンクロさせたにくい演出です。
意味合い的には「せめて映画の中だけでも主人公と自分を照らし合わせ幸福になってくれ」と言う比喩が込められています。
この事により、よりコーフィーの内面的な美しさを際立たせる意味がグリーンマイル内では使われたと思います。
そして、ミスタージングスルの存在はこの映画の肝であり、数値に表す最大の苦痛を表す上で欠かせないキャラクターとなっています。
この事を踏まえた上で、グリーンマイルの最後のセリフを振り返るとこの作品の冷徹なる「皮肉」が浮き彫りになってきます。
作品の最後に主人公が死ねない事にたいする皮肉を述べていますが、これに冷徹と付け加えたのには「ミスタージングルスがまだ生きているのに私はいつ死ねるだろう」と言う表現に対する作者の冷徹さ踏まえて表現しました。
ネズミの1時間は、ヒトの時間にすると1日に該当するそうです。
今の人生を70歳と計算しても、当時の作品中のトム・ハンクスの年齢設定を35~40代とした場合
そう!!コーフィを死刑にしてから60年が経っていると表現されたますから
前に書いたネズミの1時間=人の1日と言う計算に該当させればこの日にジングルスが寿命を全うしたとしても、60年×24日間=1440年と言う事実が表現されます。
つまり、ジングルスが寿命を全うしてから主人公であるトム・ハンクスの寿命を主人公自体が逆算できる設定を話の中で残しているのです。
それも日々、ジングルスが二週間生きれば自分の寿命が2年のびた事を目前の事実として突きつけられるのです。
この事により、単に死ねない不幸と言う表現をするよりも痛烈に主人公を追い込みます。
人間ただ死ねないと言う表現をした場合は100~200年程度しか頭に浮かびませんが、実数として約1500年と言う時間軸をぶつけることにより悲壮感と精神的苦痛を主人公に与えます。
また、病気を治す力を作品中に出す事により病では死ねないと言う。
意味合いも間接的に示唆しています。
そして、キャラ立てで際立たせた悪人は死ねて何故自分は死ねない苦痛に苛まれるのかと言う「皮肉」
人を殺してしまう看守と言う職業の者を死なない事で追い込む「皮肉」
善人であったコーフィを助けることが出来ず殺してしまった罪に対する「皮肉」
このような原作者スティーヴン・キングならではの「皮肉」が込められた作品と感じています。
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